<シリーズ おいしいを生み出す言葉>「みな美」の答

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<シリーズ おいしいを生み出す言葉>銀座「みな美」の答
〜その人の好きなもの作ってあげる〜
野菜の炊き合わせを食べて、心が震えた。
なんと味が丸いのだろう。
割烹のように、すましてもいない。
惣菜としての野暮があるわけでもない。
椎茸も高野豆腐も、茄子も独活も肩ひじを張らずに、野菜に敬意をはらった味が、静かに染み入っている。
そこには、味の薄さや濃さではない、食材と食べる人の姿を想い計った味つけがあった。
これはマダムの歩んできた道が生んだ、味わいだなのだろうか。
「炊き合わせがおいしかったです」。
そう伝えると、銀座「みな美」のマダムは、「ありがとうございます」といって、少女のような笑顔を浮かべた。
常連客からマダムと呼ばれる店主の砥上親美さんは、向島で生まれ育った。
父親は医者で、母親は料亭をやられていた。
小さい頃、忙しい母に代って、いつも芸者さんたちに面倒を見てもらう毎日だったという。
料理が好きだった彼女は、三歳の頃から台所に入り浸っていた。
住み込みの仲居さんたちに、「好きなものはなに?」と聞いては、その料理を作ることを繰り返していたという。
やがて大学に進むことになったが、母は進学の条件としてフランス料理を学ぶことをあげた。
通ったのは、生方美智子さんの料理教室である。
「基本を徹底的に、厳しく教えてくださる方でした」。
なにごとも生徒が出来るまでやらせる。
例えばオムレツは、一人二百個の卵を用意し、先生がお手本を見せた後、完璧にできるまでやらせるやり方だったという。
また同時に「辻留」の料理教室も通ったが、ここも基本を徹底的に教える教室で、これらが彼女の礎を作った。
やがて先生を通じて、楠木亭の寺島雄三シェフやラ・ロシェルの坂井宏之シェフと知り合い、フランスへ食べ歩きの旅へと出かけるようにもなった。
本場フランス料理を知って、フレンチのシェフになりたい、と強く思ったが、当時は女性を雇ってくれる店はなかった。そこで仕方なく、坂井シェフの店が忙しい時だけ、皿洗いなどを手伝っていた。
その頃ご両親が亡くなられ、自分で店を出すことを決意した。
銀座並木通りに出した「オストラル」である。
地下の店に降りていくと、砥上さんが出迎えてくれる。
マダムが生み出す温かな雰囲気に、優美さと骨太さを兼ね備えた料理で、客は途絶えることがなかった。
「野菜のテリーヌ」などのスペシャリテが人気を呼び、岸本直人(現ランベリー)シェフほか優れたシェフを輩出し、サービスでも佐藤陽一氏ほか、優秀な人材を生み出した店である。
その後交殉社ビルに移転しても、繁盛していたが、親戚のある行動が引き金となって、やむなく店を畳まざるをえなくなった。
自家資産をつぎ込み、夢を実現し、順風に身を任せていた矢先である。
自分の責任でもないのに、店を失う。
たった一人で資金もない。
普通なら再起する力さえ生まれなかっただろう。
しかし常連たちが、彼女を助けた。「銀座を離れろ」と、料理店経営会社の社長が声をかけてくれ、赤坂料亭の女将を一年半務めた。
その後、「銀座に戻ってきてほしい」という元常連たちの声がけで、銀座の小料理屋の板前を一人でやる。
やがて現在の場所が開き、常連たちがお金を集めてくれて、店を開くことが出来た。
今は一人で築地に行き、料理を作り、料理を運ぶ。
会社経営者やベテランシェフたちが一人でふらりと来て、舌を温め、心を休める場所でもある。
「よくネットで女将が怖いと書かれるけど、一人でやっているので、余計なリップサービスはしません。その代わり一つだけ決めていることは、その人の好きなもの作ってあげること。それが料理に一番欠如してはいけないものだと思うのです。そうすれば、言葉に出さなくとも、自分を表し、伝わると思うんです」。
人生の味は、優しく、温かく、たくましい。